天におわすこの世の絶対者よ。貴方に私の声は届かないんでしょうか。
彼との距離は開いていくばかり。
彼がこの地に存在していられるのはもう幾ばく限りでしかないのです。
絶対者よ、貴方に頼ったのが間違いなのですか?公平を重んじる貴方にはこの願いを聞き入れられないのでしょうか。

それなら絶対者よ。私は貴方に背きます。
彼を私のもとへ届けてくれないのなら私はこの身この心を悪魔に捧げても惜しくは無い。





だって私はこんなにも彼を望んでいる。










ガラスの温度分の唇 【後編】







死刑執行日が近づいていく。
あと片手に満たないほど朝と夜が来れば、彼は死んでしまうのだ。
同じ手はもう使えない。
どうすればいいんだろうか。







死刑執行日まで後四日。



「使えるものは何でも使えばいい」
監視室で太公望は一人呟いた。
「何を?」
一緒にいる太乙が太公望に問い掛ける。
彼は太公望に全面的に協力してくれているため、楊ゼンを助け出すためにあらゆる手を考えている。しかし困難を極めるこの事態を解決すいる方法は中々なかった。
そんな中で太公望が言った台詞はどんな意味が含まれているのか、太乙は気になった。
「金だ。保釈金を支払えばいい」
太公望は椅子の背の方に腕を置き、その上に自分の顎を乗せて足を投げ出している。その力の抜けた体勢を保った彼自身の表情も覇気が感じられなかった。
「保釈金?死刑執行日が確定した死刑囚に保釈金制度が適用出来るとでも思っているのかい?」
太公望の背中を見つめて太乙は彼の言うことを否定した。
実際無理な話だろう。太公望がどれだけ見境が無くなっているかが伺える。
「大体金はどうするんだい?並大抵の金額じゃ到底無理だよ」
「じじいに昔貰って増やした株が今じゃ結構な額だよ」
じじいと太公望が言ったのは彼の祖父である。かなりの資産家で孫を溺愛していた彼の祖父は時折太公望に株券や子会社を与えていたりした。太公望自身は株券はともかく子会社にはうんざりしていたようだが。
「それじゃあ原始天孫様が許さないだろう。資産家の直系の孫が死刑囚のために保釈金を支払う。週刊誌のいいネタだ」
金があっても世間体が楊ゼン釈放を許さない。
太公望は分かっているのかいないのか、可能性の有る無し関係無しに口にする。それだけ内心は不安で仕方が無いのだろう。当たり前だ。自分の大切な者が自分自身の目の前で消えようとしているのだから。





「国に払わなければいいんだ」
ぽつりと太公望は呟いた。
「じゃあ何処に支払うのさ」
理解できない太公望の言葉に太乙は問う。
「楊ゼンを作った研究所に」
太公望の正面にある並べられたパソコンのデスクトップから発されている光が淡く彼を照らす。
「本気かい・・・?」
確かに成功すれば米国への言い訳はなんとでもなるだろう。遺伝子操作された反動で身体を引き渡せる状態ではないなどいくらでも嘘がつける。しかし問題がある。
「君わかってるの?楊ゼンに関してはもう国際問題の域なんだよ。下手に手を出したらこの国全体の不利益になるそれに科学者っていうものはそんなに簡単に落ちるものじゃない」
そう、米国に引き渡すと言う事が本当なら一個人の問題ではなくなる。どちらにしろ両国で問題が起きるだろう。
そしてなにより科学者の買収だ。科学者も所詮人だろうが遺伝子組換え児を作るまでに研究に魅入られた人間はそうそう実験材料を捨てるとは思えない。しかも現在では手に入れることも出来ない貴重な遺伝子操作を受けた人間。遺伝子操作が人体に与える影響や特性を調べられるのはそうある事ではない。
「それしかないだろう、じじいの情報網と権力、そしてわしの金と話術。なんとでも騙してやる」






「あやつを助けるためならなんだって利用してやるよ」








その数時間後、太公望は楊ゼンの監獄を訪れた。
しかし鍵を普賢に捕られたため太公望は楊ゼンに近づくことは出来なかった。
「鍵・・・、ちょっと持ってないんだ。そっちに行けない」
太公望が気まずそうに言うと楊ゼンはその経緯を容易く想像することが出来た。多分この間自分に牽制しに来た普賢の仕業だろうと。
「いいんですよ、太公望。気にしないで下さい」
太公望を安心させるように楊ゼンは微笑んだ。あと少ししか共にいられないのだからあまり彼の悲しげ顔は見たくなかった。
ガラス越しに見詰め合って。お互いにガラスを挟んでいることがまざまざと感じさせられる程近くに立った。
二人を阻む其れさえなければ彼らは吐息を分かち合える事が出来ただろうな距離。もうお互いしか視界に入れない近い近い距離。
彼らは胸に詰め込みすぎた思いを話す事が出来なくてただ黙っていた。



「ここから・・・絶対助け出すから」


沈黙を破ったのは太公望。


その言葉に楊ゼンは苦しげな顔をした。





「ねえ、太公望。貴方はもう此処に来るべきではありません」
返された言葉は太公望にとって悲しい言葉。




「どうして・・・?」
太公望は驚きを隠せない。
「僕はもう死んでしまうんです、貴方にこれ以上悲しい思いをさせたくない」
楊ゼンはゆっくりと語る。
「ねえ、太公望。貴方はこれからを生きていく人です。そんな貴方に僕はこれ以上関わるべきではない。僕には貴方がくれた感情やぬくもりがある。それだけで僕は十分なんです。貴方がくれた半分でも僕が貴方に何かを差し上げることも出来ませんでしたが貴方のおかげで僕は人を愛すると言うことを知れたから・・・もう十分なんです」
太公望は諭すかのように話す楊ゼンの言葉にきりり、と心が痛んだ。
違う、と。そんな事を聞きに会いに来たのではないと、思った。
「お主はわしを愛してくれているのだろう?わしもお主を愛しておるのだ。お主にはもうこれ以上ないと言うほど関わってしまったよ・・・」
ガラスに手をついて。向こう側にいる楊ゼンに触れようとするように太公望は両手を冷たいそれに触れる。
「お主はわしに何も与えられないと言うけれど。わしは確かに大切なものをお主から貰ったよ。人を愛する感情。身体を重ねる心地よさ。抱き合う安堵感。笑いあう幸福感。そして、お主自身」
楊ゼンに自分の気持ちをきちんと伝えるために太公望は言葉を選んで語っていく。両親に愛されなかったトラウマを持つ彼は人に愛されるわけが無いと無意識に思い込んでしまっている。悲しい彼に一片でも光を与えたい。
「お主はわしを大切にしてくれた。それが嬉しかった。お主が好きなのだ。お主が犯罪者であろうがこの気持ちだけは変わらない」
太公望は楊ゼンの瞳を見据え、真意を語った。楊ゼンはゆっくりと噛み締めるかのように言葉を胸に留め、眉をひそめた。
「でもね、太公望。僕は残虐な犯罪者です。貴方が怖がった殺人も僕は本当は怖くない。両親を殺しても罪悪感や恐怖は感じなかった。それに昔僕は精神病にかかっていました。いつ再発するかもわからない。こんなやっかいな人間を傍に置くべきではない」
前に楊ゼンは言った。両親の目が怖かったと。殺人そのものに対しては定かではないがそれは多分本当だと思う。何故なら被害者は目を抉り取られていたから。殺人そのものより自分を愛さない彼らに恐怖したのだと思う。
そして精神病。遺伝子操作の副作用だろうとされるそれ。楊ゼンは知らない、自分が遺伝子操作された人間だとは。知らない方がいい。完治宣言をされたというが精神病はいつ再発するか分からないのだ。確かに楊ゼンの言うことは正しい。
だが、太公望は納得することは出来ない。




「言ったはずだ。この気持ちは変わらない」




「お主と共にありたいのだ」



手が重なる。ガラス越しに。





「泣いてる・・・」




涙が太公望の頬を伝う。それを拭う事も出来ない楊ゼンはわが身を恨む。





ガラス越しには触れ合うことも抱き合うことも慰めることも出来なくて。















二人はどちらとも無くガラス越しに口付けた。
















いつものような柔らかな感触は無く、奪い合い与え合う熱も感じられなかった。





ガラスの硬い感触と、冷たいガラスの温度分の唇がお互いを慰めた。






ガラスを伝ってお互いの熱が少し伝わった。





















「だめだ・・・。どうしても一人掴まらない」
死刑執行日まであと一日。要するに明日に迎えた太公望は買収を試みた科学者の一人が海外を渡り歩いているせいで連絡がつかないのだ。他の科学者はなんとか落とした。三日もかかったのは誤算だったが。
大半を落としたからと浮かれて入られないのだ。たかが一人と侮っていてはいけない。周到に準備をしなければいけない。楊ゼンの身を脅かすことがあってはならないのだ。
個室になっているプライベートルームに引きこもり、ずっと太公望は外部と連絡を取っていた。
しかしそれももう出来なくなる。楊ゼンの死刑執行の準備をしなければいけない。
楊ゼンを助けることが出来ない。
あと半日も経てば楊ゼンを殺さなければならないのだ。その上実験材料にされる。冗談じゃない。彼をそんな目にあわせる気は更々なかった。だがこのままだと本当にそうなってしまうのだ。

このままでは楊ゼンは死んでしまう。ガラス越しに口付けたあの冷たい唇しかしないまま彼と別れてしまう。
絶対に嫌だ。それだけは避けたい。




























どうすれば


















彼を助けられる?







































「死刑囚ナンバー0624楊ゼン。絞首刑を執行する」
ある看守に連れられた楊ゼンが死刑台に立とうとしている。
その先にある死刑台を発動させるボタンの前に立つのは太公望を始めとした看守達。
そしてやはり二人を阻むのは薄くて冷たくてすり抜ける隙間さえくれないガラス。
楊ゼンはずっと太公望を見ていた。あともう少しで見れなくなるのだから。




あと数分だけ。彼を視界に納める事を許して。




「何か言い残したいことは?」
楊ゼンを連れてきた看守が問い掛けた。



「何も」
首を横に振って答えた。







楊ゼンの首が彼の首を縛るためのロープに通された。






もうすぐ日付が変わる。





二人の視線が絡み合って。





ああ、やっぱり貴方は美しい。





どちらの台詞かはわからない。どちらともなのかもしれない。























そう思った瞬間。
途端に爆発音が鳴った。それに反応して警報機がけたたましく鳴り響く。






「何事だ!?」
太乙が辺りを見回しながら叫ぶ。
「どうやら南館の方が破壊されている模様です。連動して本館、そしてここ北館にまで回ってきているようです!!」
看守が答えた。それ以上の情報は望めない。
この場は死刑執行を取りやめ、逃げ出すしかなかった。
「総員退避!!」
爆発音と警報が鳴り響く中、皆逃げ出した。ここも爆発したようで崩れてきている。
「太公望!何やってるんだ!?」
先程の位置から一歩も動かない太公望に太乙は近寄ろうとした。しかし途端大きくなった爆発音が響いた瞬間、二人の間に瓦礫が落ちてきた。
「太公望!早く逃げなきゃ・・・」
太乙は太公望の目線の先をふいに追った。その先は死刑台にいる美しい死刑囚。彼もやはり一歩も動かない。首にはロープがかけられたまま。
「彼も逃げなきゃならないでしょう!早く!!」



その言葉に太公望は彼のほうを向いた。












ガラスの割れる音が一際大きく聞こえた。












そして太公望は笑った。














太公望が落ちてくる瓦礫のせいで見えなくなっていく。













それを見て太乙は何も言わず去った。




















「太乙!!望ちゃんは!?」
ようやく外に避難した所で普賢は太乙に掴まった。
外には多くの同僚がいた。
どうやら自分が最後らしい。後に続いてくる者はいなかった。
普賢の真剣な表情を見て太乙は答える。






「太公望はここの人間はなくなったんだ」







ポケットに入れていた看守と囚人を繋ぐ鍵をぐいっと曲げた。








そして


太乙は微笑んだ。






















その日の深夜、ニュース番組では死刑囚管理施設の爆破騒ぎで騒がれていた。
死亡者は看守の一人とその日死刑執行間近に控えた死刑囚の二人だった。
大きな爆破規模の割りにそれだけですんだという。
テロなのかどうかも含めて犯人捜索を行っていくそうだ。






「度胸のあることをするのぉ、世の人間は」
少年がマグカップを持ち、テレビを見て事も無げに言った。




「何言ってるんですか。その爆破の原因のくせに」
青年が軽く笑う。







ソファに凭れ込んで彼らは穏やかな時を過ごす。
もう二人を阻むものは無かった。











ガラスは二人を閉じ込める優しいものに変わっていた。







「愛しています」







寂しい人形は愛を知った。











少年はにこりと微笑んで青年の垂れ下がる艶やかな髪を引っ張る。














青年は優しく少年の頬に手を添えて

















そして二人は


















温かな体温を有した唇を触れ合わせ























重なり合った。















                            終

 

香月紫蘭様から頂きました。

ハッピーエンド・・・・!
楊ぜんの首にロープがかかった時は「死んじゃう?死んじゃうの!?」
と一人でわたわたしてたんですが
師叔がそうかんたんに諦めるはずなかったですね。
ガラス越しにキスをする場面や
涙を拭えないことに楊ぜんが自分を恨む場面が素敵です。
言葉での表現の一つ一つが綺麗で
心に染み渡るようでした。
最後はなんの隔てもなく二人が幸せに暮らせるように
なってくれて凄く良かったです。
二人の幸せがいつまでも続くことを祈ります・・・v

香月様、素敵な作品を有り難うございました。